2005年12月19日

ヒキコモリからどうやって回復したか

 緑色さんからトラックバックをいただきましたので、自分の経験を書きたいと思います。
 ついでにヤプログは文字数制限があるので、こちらに引っ越します。


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 私がヒキコモリをしていたとき、正直に言うと記憶があいまいになっています。
 友人も彼氏もおらず、学校での自分の居場所を見つけられず、人の視線が私に襲い掛かってくるように感じていました。

 引きこもる前、当時私は、学生会の代議員会活動に打ち込んでいました。
 学生会の同期が学生会の運用方法について疑問を抱き次々とメンバーから抜けていく中、私はなんとか現状を打破しようと孤独の中活動をしていました。
 一所懸命活動してもなかなか報われず、メンバーの少ないのを気力と笑顔でフォローし、他の委員会と渡り合う日々。 顔色を伺い続け、後輩の前では先輩としての仮面をつけ強がり、
 やがて充実感よりも徒労感を覚えることが多くなりました。

 本当なら会を抜けたかった。でもここでやめてしまったら会は無くなってしまいます。代議員会の灯火を消さないこと。それは半ば意地でした。
 でも一人で活動するのはやはり無理があって、周りの委員会の要請もあり、2年のときに会の方針が合わないと言って抜けた人が会の代表として復帰しました。
 私が辛く、苦しいとき、何もしないでいて、戻ってきた彼を赦せなかった。
 私は会のトラブルメーカーにだったかもしれません。
 今では感情的になりやすく、会を纏めるような適性がないということを自覚していますが、当時は悔しくて悔しくて反抗ばかりしていました。

 途中で耐え切れず、会を逃げるようにやめたとき、神経の糸が切れかけていました。
 最初は学校の授業にはまともに出ていたのです。
 でも普通と違う様子の私は、重い荷物のようなもの。
 女子よりも男子の友人が多かったことも、理解を得られにくく自らの立ち位置を定められなかった要因かもしれません。
 少しずつ疎まれて距離を置かれました。
 精神的にぼろぼろになっていました。

 そういう状態の頃、よく覚えていないのですが、実家に帰省しました。
 母はとても機嫌が良く、嬉しそう。

 「最近お父さんが怖くなくなったの」
 「私はお父さんに勝ったのよ! 長く苦しんでいたのが馬鹿みたいだわ」

 ずっと私に会っていなかったせいでしょう、とても饒舌でした。

 でも。

 私は母の言葉を聞いていて感じてしまった。
 母を守り支えていた私の存在というものを、母が気付きもしていなかったことに。
 私が母の盾となり、父親の暴力の矢面に立たされていたとき、ただ震えて時に私を差し出しさえした母。
 弱い母。愚かな母。

 「もっと早いうちになぜ戦わなかったの!お母さんは自分の事ばかり大切にして、子供を盾にしたんだ!」

 泣きながら怒鳴った私の声に、母もまた仕方が無かったのよお母さんも怖かったのと言って、ただ泣きました。
 ほとんど眠らないまま、翌朝、予定を早めて家を出た私は途方にくれました。
 私の最後の居場所がなくなったから。
 電車の中で泣き、どうしても涙が止まらないので、上野駅のどこかの休憩所で涙が止まるまでずぅっと泣いていました。
 泣いていたのが3時間だったか半日だったのか、よく覚えていません。
 ついでに、この帰省が夏なのか秋なのか冬なのかも、覚えていません。
 夏の終わりのような気がします。

 ヒキコモリになったのはいつなのか覚えていません。
 4年生になってからのような気がします。卒論を書き始めていましたから。

 指一本動かすことさえ苦痛で億劫な毎日。
 人の視線がとにかく恐ろしく、買い物をするのも知り合いの多い地区を避け、買出しに出かける。人の視線が怖かったので、やがて酒浸りに近いような生活になっていきました。
 ウィスキーを意識が朦朧とするまで飲み眠り、起きてはまた飲む。
 飲んでからでないと外に出られませんでした。
 電話の音が怖いのでモジュラージャックを抜く。
 アパートに入れられた手紙は読まずに捨てました。
 研究室にも徐々に行けなくなりました。
 学生数がもともと少ない上に、代議員という、特に人との交流の多い活動をしていたことが、かえって自分の首を絞めました。
 何も考えたくない、感じたくない逃避の日々。
 
 私が回復したのは、嫌がる私を手を引いて外に出してくれた先輩のお陰です。
 学校の研究室には震えて近づくことさえ恐れた私を、少しずつ外に手を引いて連れ出してくれました。
 ぼんやりと朦朧とし、ぼうっとして動かない私を、車の助手席に乗せて、学校とは無関係の場所に連れて行ってくれました。
 先輩のアパートに連れて行って、別に話とかはしなかったと思いますが、黙っていさせてくれたりしました。
 私は親から大学を卒業してから聞きましたが、私が家から出ることが出来なかったとき、心配して実家に連絡してくれたのは先輩です。大学の卒業が出来ないかも知れない状況に陥っていたとき、それを知らせてくれたのは先輩でした。

 今思えば、それが良かったような気がするのです。
 私は疲れていました、一人でいるのは寂しかった。大学のことは考えたくも無く、放置しておいてほしいと思う反面、どこかに連れ出してほしかったのです。
 正直はじめは嬉しい反面苛立ちもしました。
 余計なお世話と不快に思いました。
 私の内面に踏み込んでほしくありませんでしたが、先輩は嫌がる私を宥め励まして、少しずつ学校に行けるように手を引いてくれた。
 私が嫌がっても手を引くことをやめようとしない人でした。
 どうしても私が嫌がって拒否したときは、黙って見守ってくれた、受け止めてくれた。

 ヒキコモリから回復するのに必要なこと。
 何をどうしたらいいのか、曖昧としていて、正直自分にも分からないのです。
 見守る側もタフでないと辛いのではないかと思う程度で。
 ヒキコモリは不安な反面、ぬくぬくと居心地のいいものです。
 そこから出て行こうとすると、どうしても普通ならどうということもないような刺激で傷つきます。
 人によりけりなのかもしれませんが、どうしても外に踏み出して行けない人を支え、前に踏み出すことが出来るようにフォローしてくれる、後押ししてくれる人が必要かな、と思います。
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posted by めぃ at 22:47| Comment(1) | TrackBack(1) | 考えたこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
貴重な体験談を有難う御座います。
パワー、必要ですね。支える側にも、抜け出す側にも。
私も鬱になった時、何をするにも億劫で、辛かった経験があります。(私の拙ブログにて詳しく述べております)

こうなると支える側の持久戦ですね。
へこたれないように気を張らなくちゃ。
Posted by 緑色 at 2005年12月20日 00:30
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